お経の世界
「お経をお唱えするだけではもったいない」
お経の解説
このお経は、宮城県仙台成田山で水子供養をする際に読経しているお経です。そのお経の解説の一部です。成田山へ水子供養に立ち会われる方や、水子供養をお願いしようと思っている方は、ぜひ、お経の解説に目を通されてから、水子供養に参列いただければと思います。
勤行式
- お経の世界 懺悔文
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「我昔より造る所の諸々の悪業は皆無始の貪瞋癡に由る心語意より生ずる所なり一切我今懺悔したてまつる」
- お経の世界 三帰礼文
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「人身受け難し今既に受く 仏法聞き難し今既に聞く。 此の身今生に度せずんば、更に何れの生に於いてか此の身を度せん。 大衆諸共に至心に三宝に帰依したてまつる。
自ら仏に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、大道を体解して無上意を発さん。 自ら法に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、深く経蔵に入りて智慧海の如くならん 自ら僧に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、大衆を統理して一切無礙ならん。」
- お経の世界 十善戒
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「弟子某甲 盡未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見」
- お経の世界 発菩提心真言
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「おん ぼうちしった ぼだはだやみ」
- お経の世界 三昧耶戒真言
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「おん さんまやさとばん」
- お経の世界 開経文
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「無上甚深微妙の法は 百千万劫にも遭い遇うこと難し われ今見聞し受持することを得たり 願わくは如来の真実義を解せんことを」
- お経の世界 仏説摩訶般若波羅蜜多心経
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「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩、依般若波羅蜜多故、礙、無礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経」
- お経の世界 光明真言
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「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらはりたや うん」
- お経の世界 ご法号
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「南無本尊界会」「南無大師遍照金剛」「南無興教大師」
- お経の世界 普廻向
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「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを」
読誦の御利益
メインテーマは「お唱えするだけではもったいない」ということで順次、勤行式の解説をしたいと思っています。
読誦における枝葉末節部分の一部については省略しますが、これらのお経は毎朝お唱えして供養しているものであります。大本山成田山仙台分院ではこれらのお経のすべてを読経することを正式なものとしております。
まず、この「お唱えするだけではもったいない」というのは、何を意味しているかについて解説します。
お経を読むということを意味する読誦(どくじゅ)することが、どんなに読誦にはご利益があるかということについて述べます。
読むだけ、読誦するだけではもったいないので、この内容を少しずつ、一個ずつ解説を加えていきます。
まず、一番最初の開経文(かいきょうのもん)というところの解説からになります。
こちらの方にも書いておりますが、こちらは開経の偈(げ)となってます。
こちらの勤行式の方では文となってます。
それは何故かを説明いたします。
一応もう一回読誦します。
無常甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千萬劫(ひゃくせんまんごう)にも遭あい遇おうこと難かたし。
われ今見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。
願わくは如来(にょらい)の真貫義(しんじつぎ)を解(げ)せんことを。
読誦したこれは開経偈です。
どちらも全く同じ意味なのです。
こちらの方は、漢字・漢文で書いてあります。
開経偈(かいきょうげ) 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう) 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう) 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ) 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
という形になります。
こちらの意味から説明していきます。
この開経偈げの「開経」の中の経というのもは、経本のことです。
しかし、本当は読誦するのに解説というのは誰が聞いてもわからないといけないのです。
ですから、子供でもわかるくらいのレベルで解説していきます。
こういうお経を開くにあたっての偈(げ)ということですが、
偈という意味は詩などそういう感じでとっていただければよいのです。
ですから、お経を開くにあたっての詩とか、題とかということになります。
お経を開くにあたっての身近な「ことば」という形になります。
必ず、どのようなお経を読誦する場合も、これだけは独立しているような感がありまます。
どのお経の前にもこれだけは必ず付くのです。
書き下しでも、漢文でも、どちらでも結構ですしどちらでもかまいませんが、開経偈というのはどのお経でも読誦します。
講讃(こうさん)といいまして、釈尊の大変ありがたい「ことば」ですから、それを講義して賛嘆する、褒め称えるということになる訳です。
読誦といいまして、お経をあげるときなどの場合にも必ずお唱え致します。
私も千葉県の成田山で修行させて頂きました。
その授業が普通の学校のような形式で、どんな時間であっても授業が始まる時に、ここだけは読誦致します。
例えば、御詠歌(ごえいか)やお習字の時間でもします。
まず最初に読誦をして、それから授業を始めます。
お経の渡来
偈(げ)についてお話しします。
「梵語ぼんご」といいます。
中国から日本に渡来した仏教は、インドで2500年前にお釈迦さま、釈尊によって開かれた教えです。
日本でもよく解らない様な大昔の「ことば」が色々あります。
それと同じで、インドにも2500年とか2000年前の現地の「ことば」があります。
その「ことば」を梵語といいます。
梵語は、インドでも、大変有り難い「ことば」です。
そして梵語は詩の形になっており、お経が書いてあります。
それをインドの「ことば」で「ガーター」と言っています。
インドで仏教が興り、お経は中国のシルクロードを経て渡来、その後日本に渡来してきました。
ですから、日本に渡来したお経はもともとの「現地のことば」を「中国のことば」に漢訳しています。
そして、「ガーター」という言葉に「偈(げ)」という漢字を充てたわけです。
また、「偈」の他に、「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」と訳されています。
お経がインドから渡来した中国では、ありがたいお経を訳すときに、インドにならいました。
この部分(無上甚深微妙法)を「句」と言い、この句が何個か集まって「偈」となります。
そして、句は七字あるいは、四字に漢字を揃えます。
そのため、この開経偈は、きれいに七つに漢字を揃え、一句が七字で出来ており、それが四句集まり一偈となります。
ですから、お経は四句一偈の漢文の詩で作られているものです。
要するに、このお経を開く場合や講讃、褒め称えて興行する場合に、必ず付ける「詩」すなわち「ことば」であります。
次に内容についてご説明します。
- 無上
上が無い。上が無いというのは有る無いの“無い”をさします。要するに、上が無いということは、上が無いぐらい、この上も無いということになります。
- 甚深
甚だ深い。ですから、この上も無く、甚だ深いということになります。
- 微妙
ここは通訳させて頂くと、「人間の智恵では推し量ることの出来ない不思議な」という意味です。妙という漢字には,「不思議な―」という意味があります。
法
お釈迦さまが説いた教えをいいます。法とは、余りにも甚だ奥深くて、上が無くて、この上も無くて、大変ありがたくて、なかなか説き難い。また、お釈迦さまがお説きになった法というものを、一言ではとても言い表わせない。そこで法というものを、褒め称えるために、無上・甚深・微妙と3つも重ねています。しかし、法を説明出来るのか、と言うとなかなか説明できないものです。
そこで、妙の字に例えまして「妙の字は、若き女の、乱れ髪、結うに結われず、梳すくに梳かれず」と表現されます要するに、何か言葉を発して説明ようとしても言われないで、また伝えようとしても伝えられなくて、という様に、乱れた髪はぐちゃぐちゃになって、なかなか髪がすけないという意味です。
ここまでを訳すと、「この上も無い、甚だ深い、人間の智恵では推し量ることの出来ない、不思議で、大変ありがたい、お釈迦さまの説いた教えは」という意味になります。
この法というのは、仏教の話をする上で必ず出てきます。
法について、簡単に説明します。
インドで生まれ中国に伝来し、そして日本に渡来した仏教というのは、お釈迦さまが6年間修行をされ、悟られた内容を、我々は「教え」の対象としています。
その教えの内容が「法」なのです。
「仏教」という言葉を二つに分解して頂きますと「仏」というのは「お釈迦さま」「教」というのは「教え」です。
私は、お坊さんになる前は「法」について何も解らなかったのです。
もちろん皆さまも初めて聴くと思います。
造詣の深い方はまた別だと思います。
けれど、千葉の成田山に修行に行きまして、一ヶ月位しますと得度式とくどしきと言い、戒律を与えられます。
そしてお坊さんになるという式があります。
千葉の成田山の一番偉い方であられた、鶴見さまという方がおられました。
私達が修行をしていた時代は寺務長をされていました。
その方が導師で授けるのです。
その方は、とても親切で、漢文を一個ずつ書いて、どういう意味かを解釈していただけるのです。
普通のお坊さんは、書かずにお経を読んで、終わりなのです。
何をやられているか解らないうちに終わってしまうのです。
法とは
漢文を一個ずつ、どういう意味かを解釈していただけるのは、ありがたいのですが、それがために延々と時間が長くなるわけです。そのうち、足が痺れて立てなくなり、途中倒れる人等も出てきたりしました。いま、思うとなんとも可笑しいです。その時に「法を今までに犯したことがあるか」と導師さまが尋ねるのです。
その時、私は「法律」の「法」しか思い浮かばなかったのです。
もちろん、私は「犯しておりません」と言いました。
でも三ヶ月位経ち授業が進むと「法」というのは「お釈迦さまの教え」だと分かるわけです。
あの時は「法を犯してません」て言いました。
けれど、良く考えてみたら、たくさん法を犯している、やりたい放題、という感じでした。
「法」を犯していない人はいるのでしょうか?
一度も法を犯したことがない人は、いません。
もしいましたら、本当に仏さまです。
一般の人に「法」と質問すると、法律の法としか思わないのです。
民法や法律の法です。
でも、ここで言っているのは、お釈迦さまが説いた教えや悟った内容を「法」と言います。
次は、百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)とあります。
書き下し文では、百千萬劫(ひゃくせんまんごう)にも遭い遇うこと難しとあります。
ここに見なれない「劫(ごう)」という字があります。
この字について、解説させていただきます。
ほかの項目でも、何回も出てきていると思うのですが、これは、時間の単位なのです。
分や時、一日などありますけれども、インドで古代に使っていた時間の観念、単位です。
これが、とてつもなく長い時間なのですが、それにプラスされて百千万という数字も付いています。
とにかく「一劫」というものが、どの位の時間、長さかというと色々な例えがあります。
正方形の大きい岩石がある。
そして岩石の一辺のことを、インドのことばで1由旬(ゆじゅん)と言います。
大体周囲が26q程あります。
そして、よく仏教画に出てくるような天女が羽衣という衣を着ています。
天女は百年に一度、はらはらと舞い降り、袖で岩石をなで、飛び去って行きます。
また百年経つとなで、飛び去っていきます。
要するに、これを繰り返して周囲が26q程、一辺が1由旬ある岩がすり切れて全部無くなる時間のことを「一劫」といいます。
それから、もう一つの例えもあります。
芥子粒(けしつぶ)の例えというものです。
一辺1由旬の城壁があると思って下さい。そして、そのお城の中に芥子粒がぎっしり詰まっています。
そして、寿命の長い人がいまして、百年に一度、このお城に来まして、芥子粒を一粒取って帰る。
また百年経つと一粒取って帰る。
その芥子粒が全部無くなる時間が「一劫」であるということらしいのです。
実際、これがどの位時間が掛かるかを計算した方がいたのです。
芥子粒一粒を0.5oとして体積を計算し、芥子粒の数を計算していきました。
そうすると、一千光年だというのです。
もう、宇宙の単位であり、もはや数字ではありません。
要するに、それ程気の遠くなる長い時間ということになります。
それ程長い一劫が、百千万と重なった位、要するに、程遠くなる位に気が長い時間という意味なのです。百千万を計算して下さいました。
百×千×万×劫と計算しますと十億劫だったそうです。
そのくらい長い時間の間という意味です。
次に「難遭遇」について説明いたします。
これは映画にある「未知との遭遇」の遭遇という字ですね。
他に似た熟語で「千載一遇」という、願ってもいない好機、
千年に一度しかめぐりあえないほど稀な機会という意味なのです。ここで言っているのは、千年どころではありません。
語句の要約は、当然、世をはみ出て、私達では理解し難いお話しをしているわけです。
要約すると「この上も無く、甚だ深く、言うに言われず、不思議なお釈迦さまの教えに遇うことは、甚だ気の遠くなる、もうとてつもなく気が遠くなる程に遇うことが難しい」という意味になります。
遭うという事は皆さんが、何かお釈迦さまとか仏さまの教えを聞くとそれがもちろん目的として悟ることなのです。
でも、まずその前に、そのようなことではなく、とにかく出遭うのが悟ることよりも、この法に遭う事がいかに大変か、悟ることよりも、お釈迦さまのこの法の教えに遭うことがいかに長い間かけても難しいということなのです。
とにかく気が遠くなるほどの時間があっても法の教えに遭うことは難しいことです。
輪廻転生
遭い遇う難しというものがあり、こちらは書き下しで、表面上はこの解釈なのです。
ところがこの裏に隠れているものがあり何が隠れているのかを述べます。
「三帰三竟(さんきさんきょう)」というお経について触れていきます。
いつもこれを読みますと涙が出てくるのです。
人身受け難し今既に受く。
佛法聞き難し今既に聞く。
此の身今生に度せずんば、更に何れの生に於いてか此の身を度せん。
大衆諸共に至心に三寶に帰依したてまつる。
三帰三竟とは以上のお経のことを言います。
三帰三竟について解説します。
人身受け難し…といのは、人の身として受け難しというのは、私達は普段、人間と生まれてきたことをあんまり考えたこともないし有難いと思ったこともないことです。
しかしこの有難いことがなかなか人間として生まれてくることはめったにはないのです。
本当は、人間などに生まれてこなくて、草に生まれたかもしれませんし、石ころになって生まれたかもしれませんし、犬になって生まれたかもわからないのです。
それで、たまたまどういう訳か人間になって生まれて来たのです。
例えば、私が蚊になっていて、あなたの体に吸い付いて血を吸って、パンとたたかれて殺されているかもわからない訳です。
本当に、人間として生まれてくることがもうほとんどない、ということなのです。
それだけではなかなか説明出来ないので、この仏教の世界についての考え方の中に「輪廻転生」という言葉があります。
輪廻転生のこのような説明は好きでない方もおられるかもしれませんが、草木に生まれたり、石に生まれたり色々、何度も転生を繰り返し、人間に生まれて、また、生まれ変わってきてというのを繰り返す訳です。
それを仏教の世界では「輪廻転生」といいます。
ちょっと話は、戻りますが、「百千萬劫(ごう)」という表現をするのは当たり前なのです。
とにかく石ころから輪廻転生して何度も生まれ変わって草木になるのにはとてつもない時間がかかります。
ここで非常に長い時間を経て、こういう輪廻転生で人間として生まれてきたというのは、いかに大変なことかということなのです。
それを、仏教の世界ではこれを、他の項目でも出てきたと思いますけども、輪廻転生において10個の世界が有ると、いわれております。
下のほうから輪廻転生を順次解説していきます。
- 一番下は地獄です。
水子の供養をお願いなさる皆さまも聞いたことがあるかと思いますが、よく「お前は死んだら地獄にいくぞ」とか言いますが、それと同じものと捉えて結構です。
- 餓鬼です。
- 畜生
- 阿修羅界
- 人間
- そのさらに上に天というのがあります。
天というと仏さまというイメージですけど、こっちの迷いの世界にいる仏さまのようなところです。
ここからまたさらに輪廻転生の上には4つあります。
ここから、悟りの世界を意味する仏さまの世界に入ります。
- 声聞(しょうもん)
- 縁覚(えんがく)
- 菩薩(ぼさつ)
- 仏(ほとけ)
このよう輪廻転生には10あると言われております。
そこで輪廻転生はどういう意味を持ってくるかといいますと、
この下の6つの世界、つまりこの迷いの世界をぐるぐる廻って歩くということで輪廻と言うのです。
転生というのは生まれ変わることなのです。
ここで重要なことは要するに悟りを開いていない人は、いつもここの中をぐるぐる廻って輪廻しているのです。
要するに仏教の究極というのは悟りを開いてこちらの方の上の4つになることなのです。
こちらの4つの世界には、生まれ変わるということはないのです。
悟ってしまいましたので、こちらの方は生まれ変わり死に変わりつまり輪廻転生ということはありません。
「四苦八苦」というのがあります。
人間は生きていく間に苦しみが有ると、それからどうして逃れるかという話になっていきます。
そのためには、結局このお釈迦さまの教えによって「悟る」ことなのです。
聞いて実行
悟ると、また、人間やほかの色々な動物とかに生まれ変わってくる時に、苦しまなくて済むということなのです。
私はまた人間に誕生したいのですが、そういうことで悟らない人は、また同じところに誕生してきて、色々また、修行させられて苦労させられてまた、一生終わって死んだなあと思うとまた、おまえ修行に行ってこいと言われてこちらに出されてしまうのです。
今度は蛇や狐のなれとか言われて、再度修行することもある訳です。
それで、こうぐるぐる転生を繰り返して、長い間、萬劫ごうかかって、初めて悟って最も上の世界になるともうこちらの方へ生まれ変わらなくなると、いうことです。それをまとめて輪廻転生といいます。
百千萬劫ごうっていうのはこのくらいかかるのです。
それでこの、百千萬を遭い遇うこと難しというのは、どういう意味かというと、水子供養をご希望の皆様や私達がたまたま、そういうことで輪廻転生してこの人の身を受けがたいのに、今、私達はすでにこの人間として誕生しています。
今まで説明してきたように、人間として誕生するのも一生なのです。
そして、鳥とか魚とかそういうのに生まれるのも一生だと思うのです。
その中で私達はとにかく今、人間として誕生して生を受けたのだからこれは非常に有難いことです。
このようなことはめったにないので、そのありがたみをよく理解してください。
人間としてこのように、たまたま幸せにくらいしていますけど、私達は人として誕生して、こんなにありがたいことはないし、そのようなことで、本当にありがたいという感謝の気持ちが出てくるのです。
この上に、たまたま生まれてきたのに人間としても誕生することがないかも分かんないほどで、その上になおかつ、仏さまの教えに今出会ってるのです。仏教について触れる機会がありましたが、このようなことは、ありえないのです。
もう人間に誕生して来ることすらありえないかもしれないのに、その生まれてきた中で、たまたま、一握りの方だけが大変ありがたいのです。
お釈迦さまの仏さまの教えを聞く事が出来たと、いうことは大変に有難いわけです。
不思議な縁で出会い、人間に誕生させて頂いたというこの不思議さ。
かならずそのようなものがあると思います。
私達がどれだけ頭や科学でどのように考えても、天才ですら輪廻の解明は出来ないのです。
もうとにかく我々は不思議という表現しかできないのです。
したがって、我々の命というのは授かっているものなのです。
赤ちゃんが生まれると「授かりもの」ということがあります。
それは誰によって授かったかというのは、後で、解説しますが、そのような我々では推測出来ない不思議な縁によってこの世に生まれてきているのです。
また、人間として誕生するという有難いことでかつなかなかないところで、さらにその上で、このように出会ったということなのです。
強調しましたが、一つ例えますと仏教を説かれた方がお釈迦さまだということなのです。
お釈迦さまが、ある時、弟子とガンジス川に行き砂を手に取ったそうです。
こちらのガンジス川とこの手に持ってる砂とどちらが少ないかと聞いたそうです。
もちろん、こちらの手に持ってる方が少ないです。
このように今、輪廻転生してる中で人間として、この砂のように、なかなかない事なのだという話なんです。
この手のひらの砂の中から又親指に砂を上げたそうです。
この砂と、この手のひらの砂がどちらが少ないかということを聞いたそうです。
そうしたら、もちろん親指に上がっている方が少ない訳なのですけども、この様に人間として生まれるのもまれなのに、この指の上に上がっているぐらい、お釈迦さまの教えに遭うことはまれなのだということなのです。
ですから、大変にありがたいと思わないといけない、ということを言ってる訳です。
くり返しますと人間としてなかなか生まれ出ることはできない、それには輪廻転生というものがあります。
そういうことで感謝の気持ちを持たなければならないし、また、人間として生をさずかった不思議というものと、その上に、この仏教の法に遭う事がなかなか出来ないということなのです。
訳読していくと、この上もなく深くかつ人間の智慧では、はかり知ることの出来ない不思議なお釈迦さまの法は大変に有難く、例え百、千、萬、劫ごうという気の長くなる長い時間を費やしたとしてもなかなか遇うことは出来ません。
その中の教えは、遇うよりも人間と生まれてくることがまず大変なのだと、いうことを言っています。
こういう大変な思いをして、いま、私達は見聞し受持することを得たといえるのです。
これは大体お分かりだと思いますが、この「見聞」ということについて解説していきます。
これは他の項目でも出てきたと思いますが、お経を我々が見て実際にお唱えしたり、それを用いて修行するときにどのような態度で臨めばよいかというと聞思修もんししゅうと呼ばれるような態度で行うべきです。
これは、最初教えを良く聞いて記憶した上で心の中で何度も繰り返すべきであり、それから実際にそれを生活の中に取り入れて実践してみようといっているのです。聞いて実行なのです。
せっかく、こういう機会がありただお経を見て聞くだけではもったいないのです。ぜひ実生活の中で生かせるように努めるべきでしょう。聞いて実行なのです。
聞いて実行する事によって「悟り」とよばれる、お釈迦さまの教えを体得することが可能になるのです。
これを、昔の人が具体的にどのようにすればよいのかを提唱しました。
それは、「耳に聞き心に想い身になせばやがてさとりにいりあい」という表現です。これは非常にうまく聞いて実行を表現されています。
これを平易文に換えると「耳で聞いて心で何回も想って、身で実行すればやがて悟りに入りにいくことができる」というのです。聞いて実行なのです。
四苦八苦のない生き方
見聞し受持することで四苦八苦のない生き方を得ることができます。
この中の「受持」という言葉は、「教えを受けて記憶すること」や、「受けておぼえること」です。
ですから「私は今、見聞して受持しました」で、「見て聞くこともでき、心にとどめることもできます」という意味になります。
次の「願」とは言うまでもなく「お願い」を指します。
そして、「如来」とは仏教を説かれたお釈迦さまを意味する仏さまのことを言います。
そして、次の「眞實義(しんじつぎ)」は意訳すると「真実の意義が分かりますように」と言う意味になり、
先ほどの文章とあわせて「どうか釈尊、仏陀、仏の教えの真実の意義が解読、分かりますように」ということになります。
前述しましたが、何かお経をこれから読むとき、お釈迦さまの教えをこのような形で皆さんと褒め称えるときに必ず先ほどから触れている「開経解(かいきょうげ)」をつけています。
ここからわかることは、「こういうことでようやく出会いました。私はこういうことで今、教えを見聞し受持することが出来ました。どうかお釈迦さまの仏さまの教えの、眞實義がわかりますように」、ということを唱えることでお経が始まります。
次に「三帰礼文(さんきらいもん)」について触れます。
「人身受け難し」、とはつまり人として誕生してくることはなかなかないということです。
しかし今、たまたま運がいいことにすでに人間として誕生してきました。
「佛法聞き難し今既に聞く」とは、仏さまの教えに出会うことは非常にまれなのに今出会えているということを言っています。
お釈迦さまの教えとは二千五百年前であり、そこに誕生していないので、直接教えを乞う事はできないし、まして二千五百年前に誕生するなんてとても出来ません。
このように人間として生まれてきて、その人生の中で仏教に出会えることは非常に困難であるにもかかわらずたまたま今、非常に聞くことが難しいお釈迦さまの教えをこの場で今聞きくことができましたという意味になります。
次の「この身、今生に度せずんば、更に何れの生に於いてか此の身を度せん」は何を意味しているかというと、ここでいう「今生」とは今生まれた現在の人生のことを言います。現生、過去生、未来生、とありますがいわゆる輪廻転生によって、人間として誕生して、又死んでまた人間として誕生するかどうかは分からないながらもまた生まれては死んでを繰り返していきます。
そして、今この私たちが生きている現生において人間として誕生しています。
これは前述したように百、千、萬、億という非常に大きな単位でも足りないほどめったなことでは人間として生まれてくることないにもかかわらず、今現在幸運にも今まさに生まれてきたということです。
「この身今生に度せずんば更に何れの生に於いてか此の身を度せん。」についてですが、たとえば「今日はもうやらなくていいから、あとでしばらくしてからやろう」と思ってると、今生とはすぐに過ぎ去っていきますので、結局できないままで終わってしまうことになりかねません。「あとでやろう、明日からやろう」と思うのは、皆さまにも心当たりはありませんか。
今この世で人間として誕生してこなければ蚊とか犬とか石ころとかになっていたかもしれませんが、たまたま人間として生まれて来た時に、とてつもない時間がかかったとしても今やらなければ二度とできません。
ですから、「今生に度す」ことが必要になりますが「度す」というものは「悟りを得ること」を意味します。
何か悟りを得るということはすごく高尚なイメージがあるかもしれませんが、そのような感じではなく、四苦八苦のない生き方ができる人になることをいいます。
この四苦八苦のない生き方というものは幸せに生きることです。
四苦八苦がなく幸せになるためには、この方法によるしかないのです。
ここの「度せん」というものは何を意味するかということのヒントはお彼岸にあります。
お彼岸とは、たとえばここに川があったとして、こちらが此岸という迷いの世界があります。
ここではみんな四苦八苦して、悟りを得ることがなく苦しんでいます。それで、そういう四苦八苦のところから度すというのは悟りを得るということで、悟りを得て彼岸に到達することができます。
かの岸っていうのは何かというと、四苦八苦のない「悟りの世界へ」ということです。
「大衆諸共に至心に三寶に帰依したてまつる。」については、少々むずかしく言ってはいますが、内容はさほど難しくはないのです。
それは、悟りを得て四苦八苦のない幸せな生活をする為にはどうすればよいかということなのです。
それにはここにあるように三寶に帰依した方がいいですよとなります。
帰依するには大衆とともにすることが必要ですが、その「大衆」とは「多くの信仰を同じくする人々」を言い、あわせて「多くの信仰を同じくする人々とともに至心に三寶に帰依します」となります。
「帰依したてまつる」の対象になっている「三寶」とは、について解説します。
三つの寶に帰依ということは寄りすがるということです。
よりすがると言うとたとえば旦那の給料をあてにするとか、嫁さんにごはんを作ってもらって生きてるとか
会社の社長さんであれば社長という地位によりすがるとかいろいろあります。
何かによるすがる事は、誰しも心当たりがあるのではないでしょうか。
しかしそういうものは全部くずれやすいのです。実はこの言葉にはもっと深い意味があります。
我々はこの三つの寶によりすがってとにかく生きていくということになります。
この三つの寶とは何かというとこちらにだんだん入ってくるものです。
ここの所に帰依仏、帰依法、帰依僧と、三つの寶があり、
四苦八苦を除くのなら、まずは仏さまに帰依するということがあります。
ここでいう仏さまとはお釈迦さまのことを言います。
それから法というのはなかなかめぐり合うことのできないお釈迦さまの教えのことで、これはお釈迦さまの悟りの内容を意味します。また、仏さまに帰依しますということになります。
最後の僧についてですが「お坊さんに頼るなんてずうずうしい」と思われるかもしれませんが、僧の意味はここでは違います。
僧とは、インドの言葉で三河(さんが)と同じことを言っています。
ここでの「三河」、とはインドの言葉の「そうにゃ」を漢字に当てたものです。
そこでこれをカッコして省略して「僧」と表現してるのです。
この「三河」の元となった「そうにゃ」とは何かというと教団のことを言っています。
教団とは何かというと、仏さまの教えによって集まっている人々、仲間のことを言い、こういうものに帰依いたしますということになります。
そうすることによって悟りが得られて幸せで四苦八苦のない世界が出現いたしますということです。
最後に大事なポイントを理解していただくために通訳します。
無上、このうえなくはなはだ深くかつ人間の知恵では推し量ることのできない不思議な大変有難い教えは例え百千萬劫(ごう)という気の遠くなるような時間を費やしたとしてもなかなか遇うことは出来ません。
人として生まれてくることもなかなか出来ません。
生まれた不思議さ有難さそういうものの意味あいが有ります。
たまたま有難くも不思議な縁に結ばれて人間に生まれたばかりか仏教を見聞し受持する機会を今得ました。
どうか仏さまの教え、仏陀が教えられた真実の意義を解せ四苦八苦を除かれますように
人としてなかなか生まれがたい今すでに誕生しました。
大変有難いです。
釈尊の教えもなかなか遇うことは出来ません。
今すでに聞きました。
この身、今生、今の生きている間に来世とかその先の事考えないで、とにかくそういう形でやらなければさらに何れの生、いずれ百年先か千年先かにおいて出来るかどうか生まれるかどうかわからないので今のこの身で四苦八苦のない悟りを開こうと思います。
信仰を同じくする大衆と共に心より三寶、つまり仏、法、僧に帰依致します。
心から無心になってよりたよりますということです。
ここまでで終わりですが、漢字かな混じりでたった四句だけ、漢字だけですとわずか二行です。しかし、わずか二行でこれだけの説明が必要なほど無常で深いものなのです。
先ほども説明したように、言うに言われず説くに説かれずなのです。ですからこれだけのものを解くのにこのくらいかかります。
いま、お釈迦さまの教えに触れた皆様には、ぜひ、読経するとき、この御経の意味を思い出しお唱えしていただければと思います。
最後に「お唱えするだけではもったいない」と言うのは、このお経を理解し実践できた時、心から四苦八苦が除かれると、そのように思ったことからです。皆さまにも、これをご縁にそのような気持ちを持っていただければと存じます。 合掌
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